「胡同〈フートン〉のひまわり」


昼過ぎに、パイプオルガンの演奏を聴きに埼玉・川口市へ行く。
初心者のパイプオルガンの演奏ほど面白いものはないことを発見する。
きっと練習では一通り弾けていたのだろうが、本番では全員が無残に散っていた。
パイプオルガンといえばということで、演奏するのはバロックの作品のみ。
バロックの音楽は童謡のように一曲が決して短くはないので、弾けば弾くほど重圧を感じて演奏の破綻ぶりが際立っていく。

何か思い立ったように急に演奏を一時停止にしたり、緊張すればすればするほど鍵盤を押さえる指は硬くなっていくのだろう、
演奏のテンポは次第に遅くなっていき、時間を長く感じれば感じるほど指が硬直していくという悪循環で再びミスして一時停止という繰り返しだった。
ここまで演奏者の動揺するさまが反映される演奏は珍しいのではないかと思うほど、まさにボロボロの一言につきる。
観客は演奏者の知り合いばかりなので、最初のうちは笑いを必死に堪えようとしているのだが、次第に笑いを堪えきれなくなって四方八方で噴き出す声が止まなくなるのだった。
それでも、礼儀を弁えてか最後の最後で大きな笑い声にならないように口を押さえるなり口をふさぐなりしているところが日本人は悲しい。
あそこまで言ったら大声で笑ってあげたほうが却って演奏者も気が楽になるように思える。
それに、大きなクスクス笑いほど更なる笑いを助長するものはない。

 とはいえ、なかでも不協和音と、ミスタッチ、一時停止などの超絶演奏で展開されたバッハのトゥッカータとフーガには絶句するばかりだった。演奏する勇気を褒めたたえたくもなるが、あそこまでいくと、あまり人に知られていない曲を演奏する謙虚さも必要かなと思ってしまう。

笑いを提供してくれたことに感謝をこめて演奏者の弁護をすると、たしかに大音量でしかも背中に観客の視線を浴びながら演奏する本番と練習時との差に面を食らい本領が発揮できなくなるのも分からないでもない。
ピアノのように、グランドピアノとアプライトピアノの違いであれば、想像力で補えなくはないのだろうが、パイプオルガンともなると想像を超えた世界が展開されるのもうなずける。

兎にも角にも大いに楽しませてもらい、笑いの余韻をかみしめながら会場を後にする。


都内に戻ってくると池袋で途中下車し、東口のシアターグリーンの裏手にある小料理屋が並ぶ路地へ。外はすっかり暗くなり、休日のせいか人通りも少ない。フランス料理屋で、遅い昼ごはん兼早い夕ご飯をする。まだ六時前なので他に客はいない。カキのパイ包みと魚のムニエルを食べる。


食後、池袋の新文芸座にて中国映画「胡同〈フートン〉のひまわり」 を観る。
舞台は北京の旧市街、胡同地区。親子二世代、およそ30年間に渡る家族の話。
話が展開し現在に近づくにつれ、高層ビルの造成が進み、主人公が育った胡同地区の民家は取り壊され古い町並みが次々と消えていく。
北京オリンピックを目前に国をあげての都市の近代化が行われていく姿がスクリーンに映し出される。胡同地区の記録映画としてもさることながら、中国の変貌ぶりに驚かされる。